January 28, 2007
薩長同盟

明治維新は奇跡の革命ですが、その大きなうねりとなった薩長同盟について、司馬遼太郎氏の『この国のかたち(五)』に見事な要約がありますので、以下引用しご紹介します。
慶応二年正月十日、桂小五郎(木戸孝允)ら長州藩士一行は京都・相国寺門前の薩摩藩邸にひそかに入ります。当時、薩摩と長州は薩長同盟のくだりを思いだしてみると、とてもそんな同盟ができあがるような情勢にはありませんでした。その前々年には蛤御門ノ変で長州軍は薩摩と会津の連合軍に完膚なきまでに敗れ、薩摩とは犬猿の仲になりました。長州は”朝敵”になり、幕長戦争がはじまります。長州は孤立無援で滅亡の寸前でした。
その薩長が第二次長州征伐がやがてはじまるこの年、密かに秘密同盟を結ぶのですが、桂からすれば積年の恨みを抱く薩摩とおいそれと同盟をという心理にはありませんでした。
桂は、ただ仲介人の竜馬の言葉だけを信じて危険きわまりない京の都に入ったのです。会談中、西郷は終始自分の意見をいわず、いわば無言でした。桂は失望し、屈辱も覚え、これ以上ここにいることは同藩の者たちへの裏切りになると思い、辞しました。
竜馬がこの同盟について西郷に言ったことは、ただひとことでした。
「長州が可哀そうではないか」
西郷ははげしく動かされ、桂をよびにやって、一挙に同盟についての会談に入りました。
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明治という国のかたち
November 26, 2006
会津若松 鶴ヶ城
司馬遼太郎氏の『この国のかたち』より以下引用しました。会津藩(福島県)について書く。
江戸時代、この藩は磐梯山の裾野にひろがる大きな盆地を根拠地とし、会津若松を城下として、二十三万石(幕末には四十余万石)を領していた。
藩祖は保科正之(一六一一 〜 七ニ)で、徳川家康の孫にあたる。
正之はまじめで律儀、民生への思いやりもあり、その人柄がそのまま藩風になった。
藩士教育もゆきとどいていて、三百諸藩の手本のようになった。
親藩であったから、外様藩のように幕閣の機嫌をとったりする必要がなかった。
従って政略の能力を欠き、むしろそれを卑しむところもあった。
そのような藩が、幕末の京という、政争の渦中に投じこまれたのは、歴史に魅入られたとしか言いようがない。
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October 22, 2006
福岡の志士
幕末にぱっとしなかった福岡藩ですが、先駆的な志士も実はいたのです。その人は、平野国臣(ひらのくにおみ)文政11年(1828年)〜元治元年(1864年) 、写真は福岡市の西公園にある銅像です。野村望東尼とも関わりが深く、望東尼が投獄中の国臣に激励の歌をおくったことが縁で、平尾の山荘に出入りするようになったといいます。
文久3年(1863年)10月に但馬国生野(兵庫県生野町)、七卿落ちの公卿の沢宣嘉(さわのぶよし)を推して挙兵(生野の変)しましたが、諸藩の兵に鎮圧され、京都六角獄舎に投獄されました。文久4年(1864年)禁門の変で京都が混乱する中、獄中において斬首されています。
わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山
平野国臣に関しても、幕末歴史探訪に新たなコーナーを設ける予定です。
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October 15, 2006
花冠の志士
秋になり、まさに読書の季節ですが、古川薫さんの本を2冊ほど読みました。ひとつはここに写真をUpしております『花冠の志士』、もうひとつは『歴史散歩 城下町 萩』です。いずれも一気に読んでしまいました。時間をつくって是非また萩のまちへ行きたいですし、『花冠の志士』の主人公である久坂玄瑞を『幕末歴史探訪』にあらたなコーナーを新設して紹介したいと思っております。またこのブログに関してですが、これまで撮影した歴史に関する写真をランダムに掲載し紹介させていただいてます。日付は撮影日とは一切関連がなく、紹介記事の区切りとして利用しております。
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October 04, 2006
筑前福岡城址 福岡市中央区城内
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黒田長政は、慶長5年(1600年)10月、筑前の領主となり名島城に入城したが、治政上適地でないとみて、この地に福岡城を築いた。
この地は当時福崎といっていたが、長政は祖先の領地備前(岡山県)の福岡にちなんで改名したといわれる。
築城には7ヵ年を要し、石垣積みの名人といわれた重臣野口一成のさしずによって、5メートルから15メートルにおよぶ石垣がめぐらされ、今もなお、その規模の雄大さを誇っている。
福岡市教育委員会 現地案内板より引用しました。
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別名「舞鶴城」と呼ばれ、九州一の広さ(47万平方メートル)を有す城が完成しました。その雄大さに熊本城藩主の加藤清正も絶賛したといいます。特に野口一成が指揮した石垣が素晴らしく、別名「石城」とも呼ばれています。
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October 03, 2006
筑前名島城址 福岡市東区名島
その三男である隆景は、竹原小早川氏当主の死去にともない、その養子となります。その後、小早川家の本家である沼田小早川氏も強引な手段で相続し、小早川氏を乗っ取った形となりました。小早川氏は隆景の下に統一され、毛利氏配下の精強な小早川水軍として活躍することになるのです。
天正15年(1587年)、隆景は豊臣秀吉の命で筑前国主に封じられ、名島城に入府します。この城は三方を海に囲まれた要害堅固な城として当時知られていました。写真はその名島城址からの現在の眺めです。
隆景には実子がなく、秀吉の甥であり養子であった羽柴秀俊が文禄3年(1594年)に養子となり、小早川秀秋と名乗ります。秀秋は文禄4年(1595年)に隆景が隠居すると、その領地であった筑前名島城主となりました。秀秋は慶長5年(1600年)の関が原の戦いで西軍を裏切ったことでも有名ですが、戦後の論功行賞で岡山藩55万石に移封されます。しかしながら関ヶ原からわずか2年後の慶長6年(1602年)に死去、嗣子がおらず、小早川家は断絶しています。
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October 02, 2006
筑前名島城址 福岡市東区名島
この城は関が原合戦後、慶長5年(1600年)黒田長政が筑前国主となり、やがて福崎の地に新しく福岡城を築いたので、廃城となったが、城跡らしさがまだ残っている。
以上、現地にあった案内板(福岡市)より引用しています。
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October 01, 2006
肥前の街道 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
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明治という国のかたち
September 30, 2006
肥前の街道 佐賀県唐津市 虹の松原
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